曲がったヘソが茶を沸かす//日没までにはもうちょっと時間のある偏屈男の独白録
2012/04/27 (Fri) 宿題レポート:「知ること」と「知らせること」

今参加している参加している研究会でマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の輪読をしており、自分なりの問題意識から正義を論じるという宿題レポートが課された。当初は出席して発表するつもりだったが、仕事の都合でドタキャンせざるを得なくなったので、レポート原稿を記録のため残しておこうと思う。

知ること」と「知らせること」(情報をめぐる正義について)

正義が「分配の公平」の謂であるなら、今の時代、最も憂慮すべき不正義は“情報の分配”の不公平にあると思います。
高度情報化社会と称される現代日本において、情報は我々にとって最も重要な“消費財”と言えるのではないでしょうか。ところがこの情報が隠蔽されたり操作されたりで、知らなければいけない正しい情報が、知るべき人のところまで行き届いていないことが、原発をめぐる騒動をはじめとする数多くの事例により顕在化してきました。
マスメディアは「社会の木鐸」たらんというジャーナリズムの矜持を放擲して、官・財・政の権力体制筋の御用機関と堕し、その意を汲んだ一面的な情報発信しかしていません。そしてマスメディアが報じなければ、どんなに重要なfactであっても、それは“無かった事”に等しいのです。
体制筋とマスメディアによる開示すべき情報の隠蔽や恣意的な操作、これが情報の分配の不正義の第一です。

一方、情報の受け手である市民の側にも不公平が存在しています。どのようなメディアと接触できているか、そのレベルによって個々人ごとの、いわゆる“情報格差”が歴然としてきました。マスメディアが垂れ流す情報には必ずバイアスがかかっていると言っても過言ではありません。テレビの愚劣なワイドショー番組を筆頭とするマスメディアに、世情動向の情報収集を依存せざるを得ない人びとが多数存在しますが、それでは的確な状況判断は到底望めません。
今ではネットやSNSなどを含めた多元的なメディアからナマの情報が飛び交っています。マスメディアに加えて、それらを幅広くキャッチし総合的に組み立て、ニュートラルな視点に立って自分なりの状況判断をする、現在ではこのような手段を講じなければ、世情動向を正しく掌握することは難しいと思われます。それができる層とできない層との間の情報格差は広がる一方です。これが情報の分配の不正義の第二です。

それでは情報の分配をめぐる『正義とは何だろう』についての『解答』を考えてみましょう。
すべての人があまねくオープンで偏りのない情報を享受できる環境を「正義にかなう」社会とするなら、それの実現にはまず発信源の既成のマスメディアを変えることから始めなければなりません。これはそれほど難しいことではないでしょう。皆が情報を鵜呑みにしないようになればよいのです。すべてのメディアが口を揃えて同じ論調だったら、背後に記者クラブ“大本営”が控えていると思うべきなのです。必ずや何らかの意図が働いています。疑ってかかるべきです。受け手の信頼を失うことはマスメディアにとって大ダメージになります。常に「その手に乗るか」のサインを出し続けること、それがマスメディア改革の第一歩です。
それから情報格差の問題ですが、これからは市民のITリテラシーはどんどん高まってきますから、ネットメディアからの情報収集の向上についてはある程度は時間が解決してくれるでしょう。でも今の段階ではネット情報に日々接触している人たちが口コミでそれを拡散していく、こんなことでどれほど情報の平準化が果たせるかはわかりませんが、何もしないより幾分かはましでしょう。当面はこのような対応で少しは正義の実現に近付けるかもしれません。

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2012/04/20 (Fri) 次男の大学卒業(その3:夜更けの酒盛り)

夜更けの酒盛り
日曜日の夜、晩飯を食べ終わって家族が銘々思い思いの時間を過ごしていた時のこと、心当たりのない発信番号からの電話が着信した。
こんな夜更けにいったい何用だろう、たぶん間違いかセールス関係の電話に違いあるまい、ということで最初は出ないでおこうと思った。電話機は親子になっていて子機はリビングにあるが本体は離れた部屋に置いてある。間もなくベルが鳴り止んだ。カミさんの声が聞こえてきた。どうやら向こうの部屋で親機の受話器を取ったようだ。始めはよそよそしい固い表情の語り口だったから、やはりセールスだったかと思ったが、それが突然歓声に変わり、それから何やら話が弾んでいるらしい。声が明るい。カミさんの口から「先生」という言葉やや次男の名前が飛び出しているところをみると、どうやら電話の向こうは次男のゼミの先生のようだ。それなら私も御礼を言わなくては、と思って電話のある部屋に入ってみた。するとどうもカミさんの様子がおかしい。涙声というのか声を詰まらせ、目も潤んで真っ赤になっている。そして私を見ると「主人が変わりたいと申しておりますので」と言うなり受話器を私に押し付けた。
不意打ちにちょっと面喰らったが、かねてからちゃんとご挨拶をと思っていたので、とにかくお礼の言葉を述べようとしたところ、先に先生の方から昨日送ったシャンパンのお礼を言われてしまった。とんでもない、話が逆だ。お礼を言うのはこちらの方だ。
それなのに先生から、自分の方こそ次男に助けられた、次男がいなければゼミは維持できなかったろう、大変ありがたかった。それに親御さんはご存知ないかもしれないが、次男は非常に優秀な学生であり、その気になって学業に再チャレンジすればもっと高いキャリアが望める、今はゆっくりうつ病治療に専念して、完治した時にはできる限り力になるから何でも相談してくれ、という嬉しいやらありがたいやらのお言葉をいただいてしまった。
親にとって子供が褒められることほどの喜びはない。先生の温情あふれる一言一句が胸に染みる。目はウルウル、鼻はツンツン、声が詰まって来た。カミさんが電話しながら泣いていた訳がこれで腑に落ちた。
電話が済んでカミさんと今の話を噛みしめる。次男がこんなに先生に評価されているなんて夢にも思っていなかった。何はともあれ嬉しい話である。
目出度いときには酒を飲むことしか思い浮かばない私である。
さあ乾杯だ。倅どもを緊急招集、安酒しか手許にないがみんなで飲もうじゃないか。
日曜の夜も更けてから、時ならぬ酒盛りが始まった。長男も三男もうまく次男を盛り上げてくれた。
楽しいひと時であった。病気の次男が家族を喜ばせ幸せな思いを味わわせてくれる。次男に感謝である。
翻って私には、誰かに褒められて親を喜ばせるようなことがあったろうか。
断言できる、一度だってありはしなかったと。
両親はもうこの世にいない。だから今更取り返しのつく話ではない。
喜んだ後でちょっとホロ苦い気持ちになって床に就いた。

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2012/04/18 (Wed) 次男の大学卒業(その2:ゼミの先生に感謝・感謝)

四月に入って、ここしばらく気になっていた懸案を果たそうと考えた。
それは今春大学を卒業した次男のゼミ担当の先生への御礼のことである。
うつ病を抱えながら、それでも何とか卒業できたのは、ゼミの先生が次男に目を掛け、何くれとなく鼓舞の言葉をかけてくれたお陰であった。
もちろん先生は次男の病気のことなど知る由もない。だからおそらく次男の態度に不審の念を持たれたことであろう。ここはひとつ、ぜひとも事情を説明し、そして親として衷心の謝意を表しておきたい。本来なら卒業式の際に直接お目に掛ってご挨拶すべきところであろうが、大量の学生・父兄や大学関係者の雑踏の中では叶わぬ話であった。
そこで、感謝の手紙に何か御礼の品を添えて贈ることにしようと考えた。あくまでも手紙が主である。
先週末、カミさんとデパートに品定めに向かった。商品券・ワイシャツお仕立券あたりが無難かな、それともお酒が好きなそうだからブランド銘柄の純米大吟醸にしようか、などとあれこれ悩みながらいろいろな売り場をさまよった。
食品売り場に回ったら、ついついいつもの習慣で日本酒試飲コーナーに吸い寄せられてしまった。もちろんしっかり吟醸酒と無濾過原酒を試飲して、コーナーの向こうにヒョイと視線を動かしたところ、ワインの陳列棚が見え、そこにはシャンパンがズラっと並んでいた。
シャンパンを贈ったらどうだろう。日本酒よりはオシャレのイメージがある。それにシャンパンはお祝いの乾杯の酒じゃないか。ちょっと贈り主のセンスが光って見える(かな?)。ということでモノはシャンパンに決定。
店員に相談すると、飲んで美味しいものということで、多少安価なものを勧めてくれたが、自分が飲むんだったらこれはありがたいアドバイスではあっても、贈答には見栄えが必要である。ということで、製造年がラベルに記されている“ビンテージ”ものを選んだ。
結構な値段である。自分がこれを飲むことは一生ないだろう。でも御礼の気持だ。こんなものでは到底表しきれるものではないが、親の気持ちが少しでも伝わってくれればと、手紙を添えて宅配便で送った。
ここに手紙の文面を保存のため記録しておこうと思う。

○○大学法学部のゼミでは倅のH.Sが大変お世話になりました。
先生のご指導ご鞭撻の宜しきを得て、お陰様で無事卒業させていただくことができましたこと、誠にありがたく厚く御礼申し上げます。
倅は二年生の折にうつ病と診断され、1年間休学いたしました。そしてなかなか寛解の兆しを見ぬまま復学し、やがて先生のゼミに加わらせていただくことになりました。
不安障害の症状もあり対人関係を避け、孤立した学生生活を送らざるを得なかった倅に対し、私共は、果たしてゼミ活動について行けるだろうか、先生や同輩諸君に迷惑をかけはしないだろうかと非常な危惧を抱いておりました。
ところが案に違って倅はゼミの活動には意欲的でした。それというのも先生の謦咳に接することが、倅の学業に立ち向かう原動力になったからです。
時折先生からかけていただいたお言葉がどれだけ大きな励みになったことでしょう。「先生に認めていただいている」、そのことが独りぼっちで学業に向かう倅の希望の灯でした。先生と出会い「恩師」と呼べる方ができたことは、倅の大学生活での唯一のそして最高の収穫だったに違いありません。
今学業を終えて倅は療養に専心しておりますが、その傍ら司法書士の資格取得を目指して今月から専門学校に通うことになりました。
医師の診立てによりますと、幸なことに倅の病状は、さほど遠くない時期に完治が望めるとのことですので、倅が法律で身を立て、先生の学恩に報いることができる日が必ずや到来することを、私共は願い、また信じております。
このような倅のことですから、先生にろくなご挨拶もできなかったことと存じます。失礼の段、お詫びいたしますとともに、倅にかけていただいたご厚情に衷心より感謝申し上げます。
そして末尾ながら、先生の今後のご活躍・ご健勝を祈念申し上げます。

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2012/04/06 (Fri) 次男の大学卒業:(その1:うつ病を押してよくがんばった)

次男が大学を卒業した。
やれやれ、まずはホッと一安心である。
卒業まで5年かかったが、それでも上出来。本当によくやった、ご苦労さん。
次男がうつ病に罹っていることが判明したのは入学後しばらく経ってからのことであった。一浪してせっかく大学生になったのに、なぜかキャンパスライフに溶け込もうとせず、友人もつくらず、講義のある時間だけを大学で過ごすという毎日であった。
そんな様子を案じないわけではなかったが、これは持ち前の引っ込み思案で生真面目な性格のせいで、今後学生生活に馴染んで行けば、自ずと快活な大学生に変貌して行くだろうと呑気に構えていた。
ところが後から話を聞いてみると、中学生の頃にはすでに病気の兆候に見舞われていたというから、生来のものと思っていたこの次男のキャラクターは、実はうつ病の症状だったのだ。以来長い年月、次男は人生で一番楽しかるべき思春期・青春期を、こみ上げてくる不安・絶望・死への誘惑にただ独りで対峙していたのだ。
それなのに、よくぞ大学合格を果たしてくれたものである。
なんで気がつかなかったのだろう、私の不用意な言動が次男の心を虐げたことがあったのではないか、など次男に対して申し訳ない思いがこみ上げ、詮無いことながら自分を責め立てた。
幸い会社にメンタルヘルスの相談窓口が開設されているのでさっそく駆け込み、病院の予約を取ってもらった。それから次男の通院闘病の日々が始まった。
当初は不安障害という診立てであった。
私なりに調べてみると、不安障害やうつ病は精神的な異変ではなく、純然たる体内作用の不全のなせるものであって、私がインスリンの生成・分泌の異変から糖尿病になったのと同様、次男はドーバミンやセロトニンの生成・分泌の変調から罹病し、そしてこの病気は私の糖尿病と違って、的確な治療で治癒する可能性が高いということを知った。
まずは心身の休養から始めなければならない。そこでさっそく休学させることにした。
だが私はまだ無知だった。それにうつ病ではなく不安障害だと信じ込んでいた。だから次男をリフレッシュさせようと山歩きや旅行に連れ出したり、居酒屋に誘って泥酔させたり、その挙句は五泊六日の日程で旧日光街道を日本橋から東照宮まで二人で歩き旅をしたり、今思うと逆効果を生むことばかり休学中にさせていた。浅はかなことであった(とはいえ、日光街道歩き旅は私にとっては生涯で最も印象に残るイベントになった。次男には迷惑至極であっただろうが)。
1年後に復学し、それから次男は孤独な学生生活に耐えた。ゼミにも毎回出席し、発表もキチンとこなし、先生には一目置かれる存在だったらしい。そして先生から目を掛けられたことが大きな励みと自信になり、無事卒業するに至ったのである。
大学生らしい経験を一通り積んでみたいということで、苦手な対人コミュニケーションを押して就活にチャレンジしてもみた。次男は前向きに生きようと懸命であったのだ。
4年経っても病状は一進一退が続き、なかなか寛解の兆しが見えなかった。そこで病院を変えてみることにした。これまでは次男の通学の中継地となっている渋谷の医院に通っていたが、ゼミも一段落して、通学の頻度もめっきり落ちることになるから、自宅に近い横浜市で良い病院を探すことにした。
そして「名医」と評価の高い医師が院長を務める病院を探り当てた。次男はこれまで掛ってきた医師を信頼しており、病院を変えることに一抹の不安があったようだが、それでも決断し、自分一人で従来の医師に転院の話をちゃんとつけてきた。これでちょっとは次男を見直した。
今度の「名医」の診立ては不安障害ではなく、軽度の若年性うつ病ということで、これは幸運なことに施薬治療で治癒するということであった。
薬を変えて、その効果があったのか次男の行動がややポジティブになってきた。
そうなると、「こうしてはいられない」とアルバイトの面接を受けようとする。卒業後の方便を得るための資格取得の勉強を始めようとする。
親心とすれば次男にヤル気が出てきたことは嬉しいことであり、何とかバックアップしてやりたく思うものである。卒業したらすぐに資格受験勉強の学校に通うように次男に勧めたりしていた。
そこに娘が春休みで帰省してきた。医学生である娘は次男の病気を案じて、教授に訊いたり、自分で調べたりして、いろいろな情報をも提供してくれるありがたい存在である。その娘の言うことには、次男は今 “治りかけ”の一番大事な時期であり、こんな時は“何もしない”のが何よりの養生法であるそうな。
さあ、この話を聞いて方向転換である。今まではイケイケと背中を押していたのが、今度は「何もしなくていいから」とブレーキを踏んだのだから、次男も戸惑ったことだろう。私がこんなにブレてしまっては倅に不信感を抱かれてもしょうがないことであった。
だが、そこは娘が上手く言い聞かせた。「ダラダラしているのがあなたの仕事なんだから」。それで次男は納得し、またホッとしたようでもあった。
卒業式を控えた週末、家族6人全員で居酒屋で卒業祝賀会を開いた。皆で飲み会をやるのは随分久しぶりのことである。私の定年退職記念の宴会以来ではなかろうか。飲み放題のコースにしたので、心置きなく飲んで食べた。
皆大いにしゃべり、笑いはじけた。子供がたくさんいる幸せをひしひしと実感した一夜であった。
帰宅して私はすぐ酔いつぶれて寝てしまったが、皆はそれからまた二次会を開き、さらに盛り上がったそうである。次男のお陰で楽しい一夜であった。
そして卒業式、会社を早退して式場に駆けつけた。大勢の式服姿の若者が参列している中に我が息子もいるのだと思うと感慨もひとしおである。
式が進み、目覚ましい成果を上げた学生の表彰があった。彼らの晴れがましい姿を遠目に見ながら、私は次男のことを想っていた。
あの青年たちは、ヤル気満々、高い能力を持ち、エネルギッシュに学生生活を送って来ることができた連中だ。だから、ある面、表彰されるのは必然の結果だ。そこに行くと次男は病気に苦しみ、不安や絶望に苛まれながらも、孤独な学生生活を、自分自身との戦いに打ち勝って完結させたのだ。こっちの方がどれだけ価値のあることか、そのことは家族だけが知っている。心底から讃えてやろうじゃないか。
思えば次男は幼い頃、言葉を発する時期が尋常より遅く、何を考えているのかがうかがい知れず、もしかしてどこかに欠陥があるのでは、と一時期ずいぶん心配したものである。ところが一旦話ができるようになったら、今度は実に多彩な言葉が堰を切って溢れ出し、「この子は黙っていたけれども、胸の内ではこんなに情感豊かなことを思っていたのか」と感動を覚えたものであった。
だから今度も、病気さえ完治したら、次男はきっと自分の将来に意欲的で志を持った、見違えるほど快活な青年に変貌するに違いない。そしてその日は遠からずやって来る。そう私は確信している。
その日が来るまで、煙たがられない程度に、次男に寄り添い見守って行こうと思う。

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2012/03/24 (Sat) 横浜で新潟万代シティバスセンターのカレーに遭遇する

万代シティバスセンターカレーレトルトパック昨年末のこと、近所のスーパーで「新潟万代シティバスセンターのカレー」というレトルトカレーが見切り品コーナーに並んでいるのを発見した。そういえば新潟市の中心部と近郊を結ぶバス路線が発着するターミナル、新潟市は「万代シティバスセンター」に立ち食いそばのコーナーがあって、カレーもメニューにあったっけ、と新潟赴任中の遠い昔の記憶が彷彿と蘇ってきた。
世の中B級グルメが大ブームではあるが、首都圏の人間が想起する新潟市のB級といえばタレかつ丼かイタリアンと相場が決まっている。このバスセンターのカレー、今の新潟でどれほどの人気かわからないが、早い話たかが“立ち食いそば屋のカレー”である。全国区に打って出るほどの知名度のある名品とは到底思えない。しかも値段が結構高い(1個500円台、ただし見切り品だったので280円になっていた)。なんでこんなものが商品化されて横浜のスーパーの店頭までやって来たのか、実に不可思議なところだ。とはいえ、ここで目にしたからには見過ごすわけにはいかない。2パック買って帰宅した(後でもっとたくさん買うべきだと後悔することになるのだが)。
それに何を隠そう、私はこのカレーの大ファンだった。このバスセンターは勤め先から徒歩10分程度のところにあり、昼食に出るには格好のロケーションであった。もともと私は立ち食いそばが好物で、新潟駅にある何軒かの店とこのバスセンターの店とでローテーションを組んでランチ時に食べ回っていた。大抵は定番メニューのカキアゲの天ぷらそばを注文していたが、バスセンターにだけはカレーもメニューにあったのだ。
そのカレー、たぶんここのオバちゃんたちの手づくりではないかと思しき、既成のルーなど使っていない、黄色くて粘度の高い古式床しい一品であった。もちろん具などは破片しか確認できなかったが、それでも子供の頃親しんだ“正調日本のライスカレー”に惹かれて足繁く通っているうちに、カレーそばもイケることが判明し、それからはもっぱらカレーそばを注文することになった。時には休日に家族連れでわざわざ食べに行くこともある、主観的には新潟で一番おいしいカレーだった。
年が明け、お節の食事も途切れた頃、いよいよこのカレーの出番となった。レトルトパックをお湯で温めて開封する。あの懐かしい黄色いルーがドロドロと流れ出してきた。確かにこの色だ。期待に胸弾ませひと匙含む。
こんな味だったっけ?期待が過剰に高かったためか、舌の記憶が薄れてしまったせいか、味に懐かしさがこみ上げてこないのだ。カミさんの批評は「不味くはないがユニークな味」というもの。店頭でオバちゃんが手仕事でつくっていたものと、レトルトパックになった大量生産品とではもうまったくの別物になってしまっていたのかもしれない。
まあ、味の期待は裏切られたものの、家族一同が新潟での生活を懐かしんで、思い出話に花を咲かせる原動力としては大いに貢献したと言えるだろう。
その後、新潟在住の友人にこの件をメールで報告した。すると彼から返信があり、新潟で結構出回っていたので物珍しさから買ってはみたが、店で食べるよりも値段が高いので(店では460円、レトルトは525円、実は1パック1.5人前だったのではあるが)一度で止めたとのこと。ちなみにネットで検索して見ると、私が十数年前人知れず愛好していた万代バスセンターのカレーが新潟の大衆食グルメの筆頭とも言うべき名物に成り上がっているではないか。隠し子が立身出世を遂げたような心持ちだ。
私としては大いに先見の明を誇りたいところだが、こんなことを言い回ったところで誰も感心してくれはしないであろう。

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s.totto

Author:s.totto
「多数派につくな」を信条とする、ヘソの曲がった団塊オヤジ。
それが祟って60歳からの再出発人生が、初体験の単身赴任のサプライズ。
このブログ、私的備忘録のつもりなので、人様にとってはどうでもいいことを、ダラダラと書き連ねています。
お退屈様。

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